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        長寶寺参詣メニュー     
 1−長宝寺山門
 2−本堂参拝   
 3−観音堂参拝   住職の般若心経回向を
 4−大師堂参拝
 5−延命地蔵参拝
 6−子安地蔵参拝
 7−宝筐印塔
 8−長寶寺八十八ヶ所
 9−長寶寺樹齢参百五拾年の銀杏の木(♀)
10−おみくじ・コーナー 今日の運勢は?
11−長寶寺全体絵図
12−長寶寺全体

ちよう ほう じ

長宝寺由緒

聖武天皇の御世天平年中(729)に諸国遊行の行基菩薩が山容に補陀落浄土の顕現を感じて、聖境の一隅に草庵を結び自ら一刀三礼に観音像を刻んで泰安したのが創まりであったと伝えられている。その後、霊像の御加護に浴した近郷の人達の崇敬も深まり、近くの二井寺山と共に観音信仰の一大聖地に発展したという。現存する古文書も多く、大同二年(807)仁治元年(1240)嘉元元年(1303)等の寺領に関する文章の他、観音堂の厨子の扉には徳治二年十月(1307)の銘があり、往時を偲ぶ貴重な資料になっている。こうした史記から当寺の創建は鎌倉期以前に建立された密教寺院であったが、南北朝の頃に普明国師を中興開山に臨済宗に改め寺運を再興し、領主の庇護のもとに寺領を付与された。ただし、元禄八年(1695)の寺社紀には慶長十六年(1611)野火に遭って堂舎が 焼失したことをとどめ、慶主座のとき岩国城主吉川広達に願出て元禄十二年(1699)高台の聖地から現在地に伽藍を移して再建した(周東町史)。観音像は秘仏で三十三年に一度の御開帳が行われていたが、明治より七年に一度となった、一方、この島田川流域はもっとも早くから開けたところで、西暦前千年、三千五百年、千五百年、五百年と推定される遺跡が発掘されている。風土記に依れば神武天皇東征に先立つこと数年前に、皇兄三毛入野尊の本州発信の要地で、木村岩熊山に天下り給い天瞼高照寺山系を根拠とされ周防、伊予、芸備海岸を守られたという。三毛入野尊の終焉の地と伝えられ、岩熊八幡宮参道西側に御陵と称する古墳がある。また付近の高照寺山(海抜645)は眼下に瀬戸内海が眺望でき、ハイキング等に最適なコースである。

臨済宗の経緯

六年の苦行を捨てられた釈尊は伽耶の菩提樹下に座禅され、臘八の暁天、天地と同一体の感激を得られた。禅宗はここに始まる。この偉大な体験をあるときは日常的に、あるときには端的に五精舎を中心に四十九年も説法された。ある日、梵天の捧げた蓮華を大衆の前で拈ぜられ、大迦葉の微笑をみられた釈尊が宣言された。いまだに説き尽くせぬ、わが心中の驚くべき法門を言葉を借りることなく、大迦葉に伝えおわった。このとき、禅宗独自の伝灯が始まる。大法は二十八伝して、達磨に至る。師は東土えの伝道を企てられ、海路中国に渡り、梁の武帝との問答のあと、法を慧可に伝えられた。禅の心印は慧能に至り、壇経にその骨格を提示した。中国の風土にあわせた寺院生活を大成した百丈によって禅宗はその形を手にした。大破仏ののち禅の働きを甦らせたのが臨済である。まもなく臨済宗は五家の長所を併せて発展する。